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2007年01月22日

MINI TOKYO

Jazz焼き鳥の親父
僕は高松でデザインとカフェを生業としています。どちらも時代の一歩先を行く業種ととらえられています。
そんな僕がよく行く店は、屋台であったり、何十年も1人で続けている中華屋さんであったり、Jazzが好きで人の良い店主がいる焼き鳥屋だったり、家族でやっている寿司屋だったりします。
最近openしたての、豪華な店舗や大型店は、一度は見に行きますが、それは仕事柄見に行くだけで、二度行くことはまずない。なぜかというと、見飽きているのだ。
確かに、機能性、設備、高価な備品等、最高のものを使っているかも知れないが、そのことに興味は持てないのと、それに価値が見出せない自分がいます。二度足を運ばせる動機には、ならないのです。 その二つの選択の基準は、人の温度があるかないか、ちゃんとオーナー自身の手でつくっているか、いないか。そして何よりも、僕の心をほぐしてくれるかだ。
先日もあるopen仕立てのカフェに行ったのだけれど、大きなポットで出してくれたコーヒーを見て、それが僕にとっては、良いサービスとはいえないかもしれないのに、テーブルには3人分もポットが並んでいる。テーブルに並んだ3つのポットが、似合わないと思った。気持ち、というより、システムでサービスしてもらっても、ちっともうれしくないのだが、どうだろう。

大きなイタリアンの店に行けば、バイキングなどと皿を並べている。ドリンクも飲み放題、しかも1200円と安い。これもまた、システムで商売してるのが分かってしまう。当然、料理も美味しくない。食べきれなくなった料理は、皿に残っている。誰でも作れるようになっている、その料理たちに、もったいないなどという気持ちは、そこにはない、と思った。

これらの店がダメだというのではなく、それでも、これらの店は満席で、人であふれているのが、僕には分からない。とにかく流行っているのは事実。

ならば、自分もシステムでデザインやカフェができるかと言われれば、出来ないと答える。そんな商売に興味がないからです。

Jazzが好きで、脱サラして、ぎこちない姿で、鳥を焼いている親父のほうに行ってしまうのはなぜだろう。たぶんそれは、その土地で、その場所で、その親父が焼いてくれ、そして、そこにしかない、なんだかいい、人のぬくもりがちゃんとあるからだと思います。

高松は昔からMINI TOKYOなどといわれ、いつも東京にあるものをマネしてきた。今、またMINI TOKYOになりつつあるように思えて、さみしい気持ちです。田舎なりのカッコイイ生き方ができないものかと思う。時代の最先端をマネするなどという、カッコ悪いコトをカッコ悪いと思わない人もいる。カッコ良くて、実は最先端なのは、飾らない素のままの人が、実はカッコいいのかもしれない。

わけのわからないブログになったけれど、その位、地方は迷っている。そろそろMINI TOKYOにさよならです。